2010年11月5日金曜日

携帯電話を見ている母親が気になるなら

上野千鶴子は、「男というビョーキは死ぬまで治らない」と言います。彼女が問題にするのは、例えば半身不随で寝たきりのおじいちゃんが、介護しているおばあちゃんに対して「誰の年金で食わしてもらっていると思うんだ!」と暴言を吐きながら、杖を振り回して暴力をふるうというようなことです。

冷静に考えるなら、日本社会で介護の担い手は、今や3人にひとりが男性であるというのに、介護させる側の男だけを見て判断するのは、決してフェアではありません。にもかかわらず、そうかこういう人は「死ぬまでなおらない」のかと、ぼくが妙に納得させられたのは、次のようなことを考えているからです。

「幼児をつれた母親が携帯電話の操作に熱中しているのは子どもがかわいそう」ということを言うひとがいて、それは確かにもっともな意見であるけれども、それを言われた母親は、たぶん穏やかではいられないでしょう。育児に24時間しばられているのは私なのに、母親は子ども以外のことに関心を持ってはいけないのか、と逆ギレせずにはいられないはずです。

新聞のコラムに、「母親がたばこを吸っているのは子どもがかわいそう」ということが書かれていたことがあります(毎日新聞2010年2月28日付「余録」)。そのコラムは、次のように続きます。子ども手当の支給が始まったいま、「社会で子育て」することになったんだから、子ども手当を負担している市民は誰でも、他人の子育てにもっと口を出していいんじゃないか。

たいへんもっともな意見ではあります。しかし子育てをしている立場で考えると、街を歩けば若い母親の子育てに意見してやろうと待ち構えている年寄りがうようよ、という状況は、たいへん都合が良くないのではないか。決して良い方ではない日本社会の育児環境を、さらに悪化させるだけではないかと思うのです。

再び冷静になって考えると、母親が携帯電話に熱中しているとき、たばこを吸っているとき、子どもがかわいそうと周囲が思うのは、決して悪いことではないというか、たいへん「良い」ことであるように思われます。問題はその次の段階で、なぜあなたがたは母親に対して、もっと子供に目を向けるように「命令する」立場に自分がいると思うのか。例えば母親が携帯電話をしている間、自分がその赤ん坊をあやしてやろうと思わないのか、むしろそっちのほうが「社会で子育て」する人びとの本来の姿ではないか、ということなのです。

しかしそんなことを言ってみても、残念ながら人生の中で、他の者に命令する以外の方法で人と関わるすべを身につけてこなかった人は、育児の局面においても「子ども手当の財源を負担している俺の言うことを聞け」という以外のやり方で、子どもやその親にアプローチすることができないのでしょう。

北米では、「福祉で子育てをしているシングルマザーは、他人の金を使いながらまともに子育てしていないんじゃないか」と非難する世論が昔も今も絶えないようですが、要するに、金を出したら自らは命令する立場だと考え、それを受け取る母親を「社会のベビーシッター」のようにしか見られない人が、向こうの社会にもたくさんいるようです。

生産性の向上だけが価値であるような社会で生きることを余儀なくされてきた人が、ギリガン的な「ケアの倫理」を身につけられなかったとしても、それは必ずしも本人のせいではないにせよ、それを「死ぬまで治らない」と言われてしまうのは、たいへんに不本意なことではないでしょうか。