2011年3月28日月曜日

震災によせて

1995年1月17日、ぼくは名古屋にいて、布団の中で揺れを感じ、 夢見心地の中で、なぜか東京にいる弟のことを案じていました。揺れたのは東京の方ではなく両親が暮らす兵庫県であることを知ったのは、少しあとのことでした。テレビをつけると何か大きなコンクリートの壁のようなものが写されていましたが、それが倒壊した阪神高速道路だということに気づくまでには、少し時間を要しました。しばらくして公衆電話からかけた電話で、母と連絡がとれて無事を確認しましたが(やや山間部にある実家には、被害というほどの被害はありませんでした)、同じ県内でどれほど多くの人が亡くなったのか、その時は知りませんでした。

それから数日は、増え続ける死者数を伝えるニュースを眺めて過ごし、週末、薬と水を自転車に積んで神戸の友人を見舞いにゆき、自転車がパンクしたので帰りは阪急電車の西宮北口駅まで歩きました。同じように駅を目指して歩いている人が大勢いて、その中にはぼくのように帰る家がある者もいましたが、家を失ってどこかへ行かねばならない人たちもいました。

あれからずいぶん時間がたって、震災とはどういうものなのか、ぼくなりに理解したつもりになっていたように思います。最初の揺れから3日もすれば、被災地には食糧が届き始めるだろう。それに続いて大勢のボランティアが現地に入り、人々を助けるだろう。寒さは、生き残った人たちには辛いだろうけれども、遺体があまりに早く損なわれないように、時間を与えてくれるだろう。少し間をおいて、生活を再建するための取り組みが始まるだろう、というようなことを、3月11日のあとに考えていました。

もちろん今は、この未曽有の状況をどう理解したら良いか、などという悠長な議論をしているときではありません。「いま、私たちにできること…」というCMの声に促されて、誰もが今の状況に対して、それぞれの時間や、お金や、労力を貢献することを求められている。このことに疑いはありません。

しかし、次のようにも思います。私たちがいま何をするかは、電力不足との戦いや、さらに厄介な原子炉との戦いだけに関係しているのではない。また東北の復興を終えるまでの一時的な努力というのでもない。私たちがいま考えたり、話したり、何かすることは、これから私たちが生きてゆく世の中が、どんなものになるのかということに、ずいぶん関係している。

思えば1995年の震災の時も、そこにいた誰もが喪失感を味わい、人生が変わったと感じ、1月17日よりあとの私たちの社会は、それまでとは異なっしまった、あるいは異なるべきだと感じたよう思います――とそんな風に言えたら良かったのですが、実際には激しい揺れにも変わらない意志を貫いた人もいて、たとえば当時の神戸市長は、多くの避難生活者が目に入らないかのように、「今こそ空港をつくる時だ」という趣旨の発言をしたのを覚えています。

いま私たちが見ているのが、高速道路をそのまま復旧した上に、空港もある神戸だということに文句を言っても何も始まらないかも知れない。そうだとしても、これから私たちが見るのが、津波のような災害にどう向きあう社会なのか。また放射線と共存する社会の条件とは何なのか。それは津波で家族を奪われた人たちの切実な問題であると同時に、決して彼らだけに切実な問題ではないし、また福島にいる人たち(第一原発の中にいる作業員、浜通りから避難した住民、それを受け入れている中通りの住民)が直面している苦しみであると同時に、決して彼らだけの苦しみではないと思いたい。

これほど深く、広範な喪失のあとに日常生活を続けるということについて、私たちは決して罪悪感を感じる必要はない。しかし、だからといっ前を向いとか、元気を出してとか、そういったことばで乗り切っしまえるものでもないように思います。あの場所やこの場所で、人々が生きる値する生をどう生き、どう死を迎えるのかということへの関心が、これからの私たちの社会でどのような位置を与えられるのか、そういったことが問われいるよう思います。

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