2011年3月30日水曜日

放射線とともに生きる社会の条件

原発に賛成であろうが反対であろうが明らかなことは、当面私たちは、普段よりも高いレベルの放射線とともに生きていかねばならないということ、そしてそのレベルが普段よりもどれくらい高いかは、同じ日本でも場所によってずいぶん違うのだ、ということです。

いま再び盛り上がりを見せつつある反原発運動(全部ではないけれど、少なくともその一部)について心配するのは、それがわれわれを「安心な」社会へと導く目印であるというよりは、むしろ現状の困難さをつくりだしている条件になってしまっていないか、ということです。放射線の怖さを喧伝することは、絶対に安全な場所にいようと心に決めた市民と、野菜づくりに自らの人格を賭けてきた福島中通りの農家、それに第一原発の中で日当40万円で働いていると噂される日雇い労働者との間に、超えられない溝をつくりだしてしまってはいないかという心配です。

放射線の健康への影響は、政治家や専門家が言うところの「身体に直ちに影響のあるレベル」とかではない限り、「疫学的なもの」です。これはつまり、人が外部被ばくあるいは内部被ばくする放射線の量が高まると、ある特定の疾患が発生するリスクが高まるということなんですが、その危険は、基本的には1万人とか10万人とかいう集団を追跡調査したときに、何年もあとになって、ようやく確認される(放射線を浴びなかった集団よりも、特定の疾患にかかる人の割合が多かったことがわかる)こともあるし、確認されない(疾患の増加が見られない)場合もある、ということを意味します。

そういう次第なので、放射線疫学の専門家の解説(たとえば「放射線による内部被ばくについて」)を読んでも、東京の水道水を飲んで自分が何かの病気になるのかならないのか、さっぱりわからないという人は多いと思いますけど、それも無理はありません。疫学というのは本来、「私は病気になりますか、それともなりませんか」という質問に答えるための知識ではないからです。

リスクの高まりは確かにあるのだが、それがひとりひとりの健康にどう作用するか、それは知りませんというのは、それは確かに不安をかき立てます。このような「疫学的な危険」へのひとつの解釈は、自らの身を守るために福島の野菜は食べないし、東京の水は飲まない、ということでしょう。たばこを吸うとガンになるよ、というような教育を普段から受けていれば、これが唯一の解釈であるかのように思えてしまいます。

しかし、疫学的な知識をもう少し詳しく見てゆけば、違う解釈も可能であることに気づくはずです。ひとことでいえば疫学的な知識は、人間が放射線と共存する条件のひとつ(ひとつです。全部ではありません)を教えてくれます。例えば過去のチェルノブイリ原発事故のような過酷な条件で、放射線が人に与える影響を追った大規模な疫学調査は、高いレベルの内部被ばくにもかかわらず、成人の白血病が増えたわけではないことを示しています。また小児の甲状腺ガンは大きく増えたが、子どもが飲む牛乳をきちんと検査していれば予防が可能であったと考えられています(そのことを簡潔に説明した内容が含まれた文書)。

知識と技術、つまり疫学的な知識と、内部被ばくを防ぐための放射性物質の検査技術は、私たちが放射線とともに生きるために必要な条件のうちの、ふたつです。ただし、技術的に安全が確かめられればそれで良いと言うことではありません。もうひとつ重要な条件であるとぼくが考えるのは、ある種類の倫理、あるいは「他者の人格に対する関心」です。

私たちに疫学的な知識があり、放射性物質をきちんと検査する技術がある(そして実際に検査する制度が機能している)ということを知っていて、さらにその上で、私たちが食べる野菜は、それを作っている農民の人格と結びついているのだということに対する関心があれば、検査を経た福島県産の野菜を積極的に買おう、という結論が導かれるはずです。

「はあ、導かれると言われても」という印象を持つ人もいるかも知れないので、福島県産のニラに対して、上に述べたようなことが実践された(かも知れない)事例を紹介しておきます。風評被害のため市場で暴落していた福島県産のニラを、横浜のある八百屋さんが仕入れて、「検査済みのため中央卸売市場に入荷して仕入れたものは安心」と説明して売ったら、ずいぶん売れたのだそうです。

八百屋の新倉高造商店ブログ:風評被害の事をつぶやいたツイッターの反応がすごい!

この話は、風評被害で福島県産のニラが価格暴落した、ということが前提になっているので、決して災害ユートピア的な美談ではありません。それを踏まえた上で重要なことは、私たちの行動と、疫学的な知識とが「あなたの健康が危ない」という論理によって結びつけられることではなく、自分とは違う疫学的な危険にさらされている他者の人格に配慮するような倫理によって、結びつけられることなのです。

他方で、いまこの時も福島第一原発で「直ちに健康に影響がある」レベルに近い放射線を浴びて作業しているかも知れない人たちへの関心が導きだす結論もあります。それは第一には、少なくともその人たちのこの先の人生に対して、私たちは責任がある、ということであり、第二にはこの先、こういう作業を誰か別の人に頼まなくても生活できるように、原発と共存する社会の条件について真剣に考え直そう、ということです。少なくともいまの技術的・制度的条件では、原発と共存する社会が民主的なものである可能性はないように思われます。ただしそのことを言うのに、「あなたの健康が危ない」と、むやみに煽る必要はないのです。

注記をふたつほど。

ぼくは普段、「hivと共存する社会の条件とはどのようなものか」ということを考えることを仕事にしているのですが、もしウイルスと共存できる疫学的、倫理的、政治的な条件があるとしたら(もちろんあるんですけど)、放射線とともに生きる社会の条件とはどのようなものだろうかと考えたのが、上記の記事を書いた動機のひとつです。

もうひとつの動機は、『関西からアフリカのエイズ問題を考える』という催しを何回か一緒にやらせてもらった斉藤龍一郎さんが、とあるMLに投稿されたメールの中に、反原発運動と障害者運動とは共存できるのだろうか、という趣旨の問いかけが含まれていたことです。上記の記事から汲んで頂けると思いますが、ぼくは反原発運動(全部ではないけれど、少なくともその一部)が、障害者運動とは本質的に相容れない主張を含んでおり、そのような主張をしなくても、原発のない社会は想像できるはずだと考えています。

3 件のコメント:

  1. 「ぼくは反原発運動(全部ではないけれど、少なくともその一部)が、障害者運動とは本質的に相容れない主張を含んでおり、そのような主張をしなくても、原発のない社会は想像できるはずだと考えています」チェルノブイリのときに一部で焦点化されたこの摩擦、合意点を探す努力が大切で、そこからわかりあえる領域こそを求めたいと思うわけです。

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  2. ひとは身近なひとになら自然と共感できる、問題はいかにその共感を遠くの人にまで伸ばしていくかだ、というような話をヒュームが論じていたと、どこかで聞きかじった気がしますが、西さんのこの文章は、まさにその実践として読みました。こうした言葉が増えていくことの大切さを強く感じます。

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  3. コメントありがとうございます。ベックは『危険社会』の冒頭で、原子力の時代が「他者の終焉」を意味すると述べていますが、これは誤りだったように思われます。障害者の運動や、そこから生まれた障害学が、間違いなくデモクラティックな社会に貢献してきたのに対して、市民運動が(その個々の要素がというよりは、全体として)、困難さの条件になってしまっているように見えるのはなぜかということを考えたいです。

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