2011年4月28日木曜日

いまエイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』を読む

ナイジェリアの作家、故エイモス・チュツオーラに尋ねれば、原子炉なるものは、彼が『やし酒飲み』で描いたあの卵、つまりやし酒飲みの男が死者から送られた卵のようなものだと言うでしょう。その卵というのは、世界中の人びとを飢えから救うほどの際限のない富を与えてくれるのですが、それと同時に、周囲にいる者に恐ろしい災厄をもたらす悪意も持ち合わせています。

文学者である故土屋哲の翻訳で晶文社から刊行された『やし酒飲み』には、訳者によるたいへん興味深い解説が付されています。それによれば、『やし酒飲み』の物語全体を覆っているモチーフは、恐怖とモラルの葛藤であると言います。
恐怖とは、敵意に満ちた自然への恐怖、思いもよらぬ場所から人間に襲いかかってくる邪悪な精霊への恐怖です。「アフリカ人は確かに、彼をとりまき、彼の生存そのものを脅かす自然とか、そのほかさまざまな問題が山積していることをよく知っている。しかし、これらの難題に、勇気と知謀をもってじゅうぶん対処できるだけの能力を、自分たちは具備しているという絶大な自信を、アフリカ人は持っている」と、土屋哲は書いています。

ここで「絶大な自信」と述べられている感情は、私たちが原子力の平和利用に夢を託した時の感情とは全く異なる性質のものだということを、言っておかねばなりません。小さなボディに原子炉を内蔵した『鉄腕アトム』の活躍を描くストーリーは概ね、悪意はあくまで邪悪な人間が持つものである、と教えてきたように思います。私たちは、原子炉そのものが私たちに向けるかも知れない、底知れない敵意に目を向けないようにしてきた。そして「難題に対処する」誰かは鉄腕アトムではなく、私たち自身であるということを、考えずに来てしまったのです。

いやそんなことはない、私たちは放射線の恐怖について繰り返し警告してきたのだ、という人もいるでしょう。やし酒飲みの男が持ち帰った卵に群がる人びとが、その同じ卵によって打ちのめされるように、私たちも放射線の恐怖に晒されているのだ、と言うかも知れません。いまこそ放射線の恐ろしさについて、もっと大きな声で警告すべきだと。

放射線の脅威は、もちろん現実のものであって、私たちはその難題に対処する必要があるのですが、しかしそれは、恐怖にとらわれてしまうことと同じではありません。土屋哲は、H・R・コリンズの次のようなことばを引用しています。「この恐怖とて、決して登場人物たちを卑屈にしたり残忍にしたりはしなかった。チュツオーラの主人公たちは常に、人間に対して、寛大で鷹揚で親切だし、悪鬼とか、敵意に満ちたゴーストに対しても、公明正大なのだ」。

『やし酒飲み』を読む者は、まるで夢でも見ているかのような、不思議な世界を旅することになります。「貪欲な、非情な生物だけが住んでいる」という「不帰の天の町」から生還したり、「あらゆる森の生物に君臨する」という「幻の人質」を味方につけたりしながら、旅を続けるのです。しかし同時にこの物語は、あくまでもリアルな恐怖とモラルについての物語でもある、ということを忘れてはいけません。

別の言い方をすれば、次のようなことです。原子炉は人類にとって夢であるか悪夢であるか、そんな問いには意味がありません。問題は、放射線の脅威に向き合う時に、私たちがどのようなモラルを持ち続けることができるのか、ということです。自然の敵意を忘れたふりをするのではなく、また自然の恐怖に屈服するのではない、別の生き方があるのだと言うことを、『やし酒飲み』は教えてくれます。またその生き方は、「現状維持」が崩れることへの不安と、放射線への不安とのあいだで身動きが取れなくなっている私たちの社会を、別の方向に変えるきっかけを与えてくれるかも知れないと思います。

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