2011年5月9日月曜日

放射線の胎児への影響を心配する人に

放射線の影響が心配なので避妊を徹底していますという趣旨の書き込みを、インターネット上で見つけました。放射線の影響下では、胎児の健康についてどう心配すればよいのでしょうか。

専門家によれば、放射線が胎児に先天性の異常を起こすのは、妊娠初期に100ミリシーベルトとか200ミリシーベルトというレベルの大量の被ばくがあったときであるとされます。その限りでは、環境中の放射線がいつもより高いからといって、臆病になって避妊する理由はないということになります(福島の一部では、環境中の放射線量が平常よりも驚くほど高いところがありますが、それでも計算してみると、妊娠初期の数週間に浴びる可能性のある放射線量は、100ミリシーベルトに遠く及ばないことがわかります)。

いやそれでは不十分だ、低いレベルの放射線による長期的な影響を調べる必要がある、という人がいるでしょう。たとえば、チェルノブイリの影響を疫学的に追った研究はどうか。ウクライナのリウネ州では、2000年から2006年のあいだに生まれた新生児の先天性異常が他の地域よりも多かったという報告があります [1]。同じリウネ州で実施された調査では、地域住民が長い期間にわたって、年間数ミリシーベルトの内部被ばくに晒されてきたことが明らかにされています [2]。(ここで年間数ミリシーベルトというのは、環境中の放射線ではなく内部被ばくについての数字であることに注意して下さい。)

[1] Wertelecki, Wladimir. 2010. Malformations in a Chornobyl-impacted region. Pediatrics 125:e836-e843.
[2] Zamostian, Pavlo et al. 2002. Influence of various factors on individual radiation exposure from the Chernobyl disaster. Environmental Health 2002;1(4).

リウネ州の土壌は、広い範囲に渡って放射性物質に汚染されており(リウネ州Rokitnovsky郡では、1平方メートルあたり25.9 - 170.2キロベクレルのセシウムが検出されています [2])、土壌からミルクなどの食品に移行した放射性物質が、長期にわたる内部被ばくの原因となったようです。

リウネ州では、住民の内部被ばくによって新生児の先天性異常が増加した可能性があります。例えば神経管欠損症 (NTDs) という一種の先天性異常について見ると、ヨーロッパの他の地域では新生児10,000人あたり18.3人に発現するのが、リウネ州では10,000人あたり22.2人だったという結果が示されています [1]

問題は、この結果をどのように解釈するかです。ここで気をつけてほしいのは、リウネ州での疫学調査は、「私は妊娠しても良いですか」という質問に答えるための調査ではないということです。 調査結果を見て、「放射線の影響下では内部被ばくを防ぐ対策を徹底すべきだ」というようなことは言えます。しかし、新生児のNTDsがおよそ0.05%(1万人あたり5人)増加したという数字を根拠にして、リウネ州の女性は妊娠を控えるべきだったとか、これからも妊娠を控えるべきだなどと考える人がいるならば、その人は疫学調査の解釈を誤っているように思います。

いや、そんな話をしているのではない、という人もいるでしょう。リウネ州の女性が妊娠を控えるべきかどうかという話をしているのではなく、私の赤ちゃんに何が起きるかということを知りたいのだと。

「私の赤ちゃんに何が起きるか」ということが問題なのであれば、疫学はその問いに答えを与えてくれません。疫学調査でわかることは、ある環境では新生児の先天性疾患が0.05%だけ増えた、とかいうようなことです。「このようなリスクがあることを知った上で、妊娠したいかどうか決めてください」と言われたら、誰でも困惑するのではないでしょうか?疫学的なリスクを知ったからといって、妊娠するかどうかを決定するための手がかりを得られるとは限りません。くどいようですが、疫学というのは「私の赤ちゃんは先天性異常を持って生まれてきますか?それとも持たずに生まれてきますか?」という二者択一の問いに対する答えを導くための知識ではないからです。

それでもやはり、「私の赤ちゃんに何が起こるか」が心配だという人は少なくないと思います。そんな時は、障害を持って生まれてきた子どもの母親たちの経験に耳を傾けてみるのも良いと思います。同時に、放射線の問題がなくても、出産を希望する女性は日々、「疫学的な問題」に晒されて生きているということを思い起こしてみるのも良いと思います。

もう少し具体的にいえば、障害を持って生まれてきた子どもを持つ母親が経験するのは、次のようなことかも知れません [3]

《私の目の前にはタバコを吸っている母親がいて、彼女はよく太った健康そうな赤ちゃんを抱いている。私はと言えば、胎児への影響を考えてタバコには手を出さなかったし、お酒も飲まないようにしていたし、葉酸を毎日飲んでいた。私がいま、抱いている子は先天性の障害を持って生まれてきた。このことを私は、どう解釈すれば良いのだろうか?》

[3] Landsman, Gail Heidi. 2009. Reconstructing motherhood and disability in the age of perfect babies. New York: Routledge.

「健康な赤ちゃんを産みたければ、タバコをやめなさい」という言い方がよくされますが、これは実は、障害を持って生まれてきた子の母親たちの経験とは相容れない論理なのです。またこれは一見、疫学の成果を踏まえているようで、じつは疫学の重要な前提を、いくつも見落とした議論でもあります。

なぜなら、妊娠中に放射線がいつもより高くなくても、タバコを吸わなくても、酒を飲まなくても、葉酸を毎日飲んでも、赤ちゃんが障害を持って生まれてくることはある、というのが母親たちの経験であり、また疫学という知識の前提でもあるからです。疫学的な危険因子と障害との関係は複雑であり、タバコを吸っている母親から健康な赤ちゃんが生まれるのは、むしろ普通のことだということを付け加えても良いでしょう。

タバコが問題ではない、ということを言いたいのではありません。まして放射線が問題ではない、ということを言いたいわけでもありません。とりわけ福島中通りのように放射線の値が高い場所で住民が生活を続けるとき、どのように内部被ばくを防ぐのかは、真剣に考える必要のある問題ではないかと思います。

その上で重要なことは、「母親が気をつけていれば健康な子どもが生まれる」というところから考えはじめるのではなく、どのような環境下でも障害を持って生まれてくる子どもはいるのだ、というところから考えはじめることであると思います。自らとわが子の人生の将来を、放射線疫学が示すデータの中にだけ見いだそうとすることは、決して人生を豊かにしないと思うからです。